大戦最強の戦車「ティーガーII」の派生型
敵である米英ソ(連合軍)が用いる全戦車を撃破可能な、射距離が3000mという大威力の12.8cm砲を搭載し、最大250mm厚の装甲に身を包んだ、車重75tものヘビー級駆逐戦車――それが「ヤークトティーガー」です。第2次世界大戦においてドイツが生み出した、量産型戦闘車両としては「最強」といっても過言ではない兵器でした。
第2次世界大戦最強の戦車と称される「ティーガーII」(キングタイガー)重戦車よりも、火力という点ではるかに強力にもかかわらず、この「走る怪物」は、期待とは裏腹に不本意な戦績しか残せませんでした。それはなぜだったのでしょうか。
【戦闘室内部も】イギリスに残る「ヤークトティーガー」をイッキ見(写真)
イギリスのボービントン戦車博物館に展示されている「ヤークトティーガー」(柘植優介撮影)。
当時のドイツ陸軍上層部では、自分たちが強力な重戦車を開発している以上、敵である米英ソも対抗して手強い重戦車を戦場に投入することは間違いないと考えていました。
そこで、試作中の重戦車の車体を流用して、そこに最厚部250mmの重装甲を組み合わせ、主砲には開発中の12.8cm対戦車砲を搭載。これにより、敵戦車を3000mという長距離から一方的に撃破可能な駆逐戦車を作り出すことにしたのです。
経験豊富なベテランがいないことが大きな痛手に
第2次世界大戦中、ドイツを率いていた総統ヒトラーは、このようなスペック的には超強力な戦闘車両にすぐさま興味を示します。その結果、本車は「狩りをする虎」という意味の「ヤークトティーガー」と命名され、早々にその生産が承認されました。
しかし、ドイツ本土が連合軍の戦略爆撃に晒され、インフラが被害を受けた影響で、当初予定していた1943年12月の生産開始が不可能となります。ようやく生産が始まったのは、年明けの1944年2月からでした。
「ヤークトティーガー」が搭載した12.8cm砲PaK.44。写真はその牽引砲タイプで、砲架と比べて異様に大きな砲身がよくわかる(画像:パブリックドメイン)。
そのため、「戦闘の機微」とか「いくさ慣れ」といった経験が不足しており、戦闘状況下でのヤークトティーガーの運用が明らかに稚拙な面が多かったようです。それに加えて操縦手の技量不足で、ウィークポイントの動力伝達系を故障させる事態も頻発しました。
「ヤークトティーガー」は、走行性能の要ともいえるエンジンのパワー不足と、動力伝達系への過度な負担という「弱点」を抱えていました。これは、当初からわかっていたことですが、それをカバーするだけの技量を備えた操縦手は前述したようにほぼおらず、加えて、それらトラブルに対応できる優秀な整備部隊も足りていなかったのです。
家ごと敵戦車を撃破した逸話も
また、大戦末期に東方からベルリンに向けて攻め進んでくるソ連軍を、ドイツ軍が迎え撃ったゼーロウ高地のように射界が開けた戦場であれば、車体をダックインさせられる隠蔽射撃陣地をあらかじめいくつか設けておき、必要に応じてそれらの陣地を移動しながら敵を射撃し続けるといった戦い方などができるので、「ヤークトティーガー」はその威力を存分に発揮できたかも知れません。しかし、そのような機会はついぞ訪れませんでした。
機会に恵まれなかったこのような戦い方は、「敵戦車への遠距離狙撃(アウトレンジ射撃)」と「重装甲をさらに増強するだけでなく足の遅さもカバーできる複数の隠蔽射撃陣地」を併用する、本車の威力を最大限に発揮させるものとなったはずです。
しかし、実戦においてこのように理想的な戦い方ができた「ヤークトティーガー」はあくまでもごく一部。前述したように「運用の不手際」と「回収・整備の困難さ」が重なって、その高い戦闘力を十分に発揮できなかったケースがほとんどでした。
戦場に遺棄された「ヤークトティーガー」。ほとんど無傷なので、おそらく故障か燃料が尽きて置いていかれたものだと思われる(画像:アメリカ国立公文書館)。
一度動かなくなったら後方に引っ張っていくことすら難しい過大な重量ゆえに、履帯(いわゆるキャタピラ)切れやエンジン故障、それこそ単なる燃料切れでも、簡単に最前線に放棄された車体が多かったと言われています。
いくらスペック的に最強であろうと、その能力がいかんなく発揮できるのは、熟練の乗員と優れた後方支援体制があってこそ。本領を発揮できないまま終わった「ヤークトティーガー」は、その2点がいかに重要であるかを、今に伝える格好の「教材」とも言えるでしょう。