自動車産業の中心地デトロイトの有力者たちは、この仕事はタフで利益が出にくいかもしれない、と米アップルに警告した。だが、生きた化石のような彼らの見解には誰も耳を傾けたがらなかった。
アップルは逆に、ソフトウエアとハードウエアを切れ目なく融合させ、時代錯誤の連中を置き去りにする自動車の新時代が到来しつつあるという、シリコンバレーのお祭り騒ぎに乗った。
結局、アップルにとって独自の自動車を製造することは、独自のテレビをつくるのと同じくらい難しかったということだろうか。テレビ開発の夢は何年も前についえたが、今週になって同社幹部は、電気自動車(EV)を発売する計画も中止すると開発担当チームに伝えた。
この最新の撤退例は、イーロン・マスク氏率いるEVメーカー、テスラの成功が、いかに確率の低いことであるかを浮き彫りにする。20年前に創業した同社を、独高級車メーカーBMWの年間販売台数に間もなく肩を並べるほどの立派な自動車メーカーに育て上げることは、アップル独自の車をつくる計画がスタートした10年前には想像し難かったことだろう。
当時、アップルの技術者たちはテスラの高級セダン「モデルS」に羨望(せんぼう)のまなざしを向けつつ、内心では恐らくこう思っていたはずだ。われわれなら超えられる!と。
なめらかな曲線、稲妻のような加速、iPad(アイパッド)風のダッシュボードが特徴的なテスラのEVセダンは「車輪のついたiPhone(アイフォーン)」と称されることが多く、アップルが参入していれば、きっとこんな自動車をつくるのでは、と多くの人に思わせるものだった。
アップルの最高経営責任者(CEO)に就任してわずか数年だったティム・クック氏は、独自の自動車を製造するという野心的な極秘計画(名称「プロジェクト・タイタン」)にゴーサインを出した。2015年に同プロジェクトが明らかになると、動揺と懐疑の入り交じった反応が起きた。
「(猫は体をきれいにしようと毛繕いするが、消化できずに胃にたまった)毛玉を吐くようなことを、誰かがここでやろうとしている」。米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)のCEOをすでに退任していたダン・アカーソン氏は当時、筆者にこう語った。アップルが携帯電話に参入した時も、古株の反応はこれと似たようなものだった。
アカーソン氏は、自動車の製造・販売はいかにハードルが高いかを多くの人が過小評価していると主張。アップルの投資家はこの向こう見ずな企てを再考すべきだとの考えを示した。
テスラは2015年当時、話題を集めていたとはいえ、自動車製造の基本を習得するのになお苦戦し、成功をまだ見通せる状態ではなかった。同社が生き残れるのか、疑問視する向きもあった。
グーグルも自律走行のソフトウエアを開発する取り組みで世間の関心を集めていた。だが同社がその頃に描いていた野望は漠然としており、巨万の富を得た創業者らの「お遊び」のような印象だった。
プロジェクト・タイタンのニュースが反響を呼ぶ中、その意義に納得する人も多かった。それは部外者には手が出せないアイデアではなく、iPod(アイポッド)に始まり、iPhoneやそれに続くiPad、さらには音楽やアップストアなどのデジタルサービスへと驚異的なビジネスの再構築を繰り返し、進化させてきた企業とそれを率いるクック氏にとって、明らかに次のステップだった。アップルは携帯電話に行ったことを自動車にも行い、そして言うまでもなく勝利するとみられていた。その上、アップルはiPhoneで達成した高い利益率のおかげで当時2000億ドル(現在のレートで約30兆円)近い手元資金があった。
長年アップルを担当するアナリストのジーン・マンスター氏は、自動車事業への参入によってアップルの増収ペースに火が付く可能性があると予想したこともあった。仮に同社が自動車市場で10%のシェアを獲得すれば、増収率は60%に達するかもしれないとの見方を示した。
それは「大数の法則」とさらなる進化の必要性に直面する企業にとって、胸が躍るような業績見通しである。
ただし、アップルの成功は多くの人が考えるほど必然的なものではなかった。
メディアに漏れ出す情報からは、アップル内部に広がる異例の不透明感がうかがえた。スケジュールを守れない事例が続出し、プロジェクトリーダーは次々と退社、任務も変わり続けた。プロジェクト・タイタンの野望は次第に縮小し、説得力を失った。電動ロボットカーから自動運転技術の完成へと焦点が移り、さらにはEVの開発を目指すようになった。
常勝企業アップルは、だんだんと身動きの取れない巨人のような様相を呈した。
社外では懐疑的な見方が広がり始めた。もしかすると、あくまで「もしかすると」だが、自動車製造は難しいというアカーソン氏の言葉が、結局のところ正しいのかもしれないと。
マスク氏はそれに同意するだろう。テスラは「モデルS」発売に続く数年間、経営破綻を辛うじて回避していたが、量産型セダン「モデル3」の投入でようやく成功にこぎ着けた。テスラはより安価な同モデルで主流の自動車メーカーへと変身を遂げ、米国の競合EV企業に投資が殺到するきっかけをつくった。さらに重要なのは、中国でも同じ現象を巻き起こし、同国のEV業界では価格競争が起きた。
こうした暗黒時代にマスク氏は、テスラをアップルに売却することすら検討したが、クック氏はその誘いに乗らなかった。マスク氏はそう語っている。
アップルはその資金力のおかげで、自動車ビジネスの素人でいる余裕があった。何十億ドルもの大金をつぎ込んでも、期待通りに事が運ばないことを理由に方針を転換できた。テスラなどがこれほどの出費をすれば、生死を分ける賭けとなっただろう。
自動運転車は10年前にはもう目前に迫っていると思われたが、多くの人が予想するよりもずっと困難な挑戦であることが分かった。また米国のEV販売台数は以前ほど順調に伸びておらず、複数の企業が生産ペースを落としている。業界の常識を覆す高い利益率を誇ったテスラでさえ、最近は利益率が縮小している。
「アップルはついに、容認できる利益率を確保できず、それを販売台数で埋め合わせることも無理だ!という結論に達したようだ」。米フォード・モーターのマーク・フィールズ元CEOは電子メールでこう述べた。
それはまるで、アップルのテレビを巡る冒険を再現したかのようだ。
自動車への野望が人々の知るところとなった年、超高解像度テレビを開発する約10年来の取り組みをアップルがすでに断念していたことも判明した。
その何年も前からアナリストや投資家らは、アップルがiPhoneの魔法をリビングルームに持ち込む可能性をあれこれ語り合っていた。だが最終的にアップルは撤退を決めた。競争の激しい市場に参入できるほど、圧倒的に消費者を魅了する機能を思いつかなかったからだ。
アップルがテレビ開発に時間を費やす間、同市場は中国の生産能力の爆発的向上で急速に進化していた。その後の数年で、テレビの価格は劇的に下がった。
テレビは自動車と同じく、利幅の薄い事業であることが判明した。
代わりにアップルは、テレビ番組配信サービスの開発に軸足を移した。同様にアップルの自動車への野望は「CarPlay(カープレイ)」に向けられているようだ。毎年販売される数百万台の新車の車載ディスプレーにiPhoneをミラーリングする(スマホ画面をそのまま映し出す)機能だ。また、同社の投資資金はシリコンバレーのもう一つの新潮流にも向けられている。米新興オープンAIやマスク氏が設立したxAIなどが追い求めている先進AI(人工知能)だ。
自動車開発からの撤退というアップルの方針転換によって、アカーソン氏は思い出したことがある。よく知らない分野に事業を広げようとして、数年後にその決断が重荷となったGM自身の歴史だ。
「慣れないことには手を出すな、ということだ。この教訓は何度も再確認されてきた」。アカーソン氏は2月27日、筆者にこう語った。
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――筆者のティム・ヒギンズは主にイーロン・マスク氏や同氏が経営する企業、ライバルたちについて執筆するWSJコラムニスト